新聞配達のアルバイトを卒業して、ライターとして自立した。

大学を卒業してスポーツライターを目指すにときに、自分のなかで決めていたことがふたつあった。ひとつは「ダメでも3年間は努力してみよう」ということ、もうひとつは「親には絶対に頼らない」ということだ。

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Tarzan』での仕事が増えてきたことで、新聞配達のアルバイトをやめることにした。ジャスト3年間の新聞配達生活だった。最初の半年は三軒茶屋(といっても下馬)で、2年半は調布(正確には国領)の販売所でお世話になった。

新聞配達のアルバイトは慣れてしまえば、さほど苦ではなかった。朝は2時半起きで、2時45分頃に出勤。自転車で約350紙を配達して、終わるのは6時頃だ。夕刊は15時前から配って、17時過ぎには終わる。あとは基本、自由なのだ。休みは月に6日。日曜日は夕刊の配達がないので、取材にも行ける。

ASA国領には日活芸術学院の新聞奨学生が多かったので、月に一度の朝刊休館日には必ずというほど一緒に飲んで、騒いだりして楽しかった。

ただし、「集金」だけは嫌いだった。何度通っても、留守ということがあるし、早朝や夜遅くに伺うわけにはいかない。エレベーターのないマンションの4階まで行くときは、「頼むからいて!」と願いを込めながら、階段を駆け上がったものだ。

 一番惨めな思いをしたのは、クリスマスイブの夜だ。年末だけは集金時期が早く、24日の前にはほとんど終わっているのだが、風呂なしアパートに住むおじさんのもとへ20日頃に行くと、「あ、悪い。いま手持ちがないんだよ。24日の21時頃に来て」とサラリと言われた。

そのおじさんは11月分も滞納していたので、とりっぱぐれるわけにはいかない。クリスマスイブの21時。そのおじさんのもとに自転車で向かった。北風が冷たく、手はすぐに痛くなった。

薄暗い共同住宅のドアをノックすると、おじさんはいた。8,000円を渡されたので、150円のお釣りを渡そうとしたら「取っておいてよ」と言われた。おじさんに悪気はないだろうが、なんだか惨めなお小遣いだった。「ありがとうございます」とお礼を言ったものの、内心はいらだっていた。

クリスマスイブの夜に、なんでこんなことをしているんだろう、とすごく嫌な気持ちになったのだ。翌朝も新聞配達があったが、気持ちが沈んで、すぐには眠れなかった。

集金のために、「夜間講座」を休まざるを得ないこともあった。そして、その夜間講座で、嫌なヤツがいた。僕よりも1つ年上で、実家暮らしをしていた大学生だ。

翌朝は2時半起きなので、21時過ぎからの飲み会にはなかなか参加できない。「時間がないのは良くないよ」とドヤ顔で言われたことにすごく腹が立った。東京で自活しながら、夢を目指すのはすごく大変なこと。それは実家暮らしの人間には絶対にわからない。

悔しい思いをするたびに、「絶対にスポーツライターになるんだ!」という気持ちが強くなったように思う。3年間でライターとして食えるようになるという目標を立てて、5か月オーバーしたものの、どうにか〝自立〟できた。

新聞配達のアルバイトを卒業して、何が違うのかというと気分が一番違った。これまでは、「いちおう、ライターをやっています」という感じだったが、ライター業がメインになり、堂々と「ライターをしています!」と言えるようになったのだ。

親にいろいろ言われるのが嫌だったし、何かしらの成果があがるまでは、実家に帰省しないと決めていた。いとこの結婚式に参加して以来、3年ぶりに実家へ帰った。凱旋というほどではないけど、ひとつ目標をクリアできたのかなと思った。2002年の夏、25歳のときだった。

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