15年前、「陸上競技」専門誌の原稿料に愕然とした。

2001年2月から僕は『月刊陸上競技』でライターとして活動するようになった。といっても「契約書」をかわしたわけでもなく、原稿料がいくらなのかも知らず、なんとなくスタートした。原稿料の振り込みは発売日翌月の14日(発売日と同じ)。原稿を送ってから、5~7週間ほどのタイムロスが生じることになる。

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同年4月号ではひとりで2ページ分を担当した。その年の箱根駅伝を逃した有力校2校を取材して、写真も撮ってというものだった。詳細はおぼえてないが、自分でアポもとったような気もする。 

その仕事は純粋に楽しかった。予選会で涙を流した選手たちを取材して、リオ五輪の男子マラソン代表になった東洋大・石川末廣(現・Honda)、トヨタ自動車で活躍した関東学院大・尾田賢典などに話を聞いた。

当時の大学4年生は僕が大学4年生だったときの1年生。年齢的にも近く、全員が〝後輩〟という感じで、かなりフレンドリーに接していたと思う。

原稿を書くのはそれなりに苦労したし、写真もサッパリだったけど、すべて自分の手から生まれた2ページを見たときは、感慨深いものがあった。ちなみに当時はデジカメではなく、フィルムカメラだ。

 『月刊陸上競技4月号』を持参して、僕は『浦和レッズ J2の軌跡』でお世話になったマガジンハウスの棚橋芳夫さんを訪ねた。報告に行ったわけだけど、棚橋さんは知り合いの編集者やライターを紹介してくれた。

そのとき『ダ・カーポ』でライターをしていたHさんに、「これで家賃くらい払えるかな」と言われたので、僕はうれしくなった。頭のなかで「5~6万くらい。いや、7万くらいもらえるのかな」と素早く計算して、笑みがこぼれたのだ。

しかし、現実はというと、振り込まれた原稿料を見て、絶句した。振り込まれていたのは、〝妄想〟の半額以下だったからだ。

月に20万円を稼ぐとなると、相当数の原稿を執筆する必要がある。それだけの仕事をゲットするのも、そのボリュームの文章を書くのも、当時の僕からすればなかなかイメージできないものだった。

スポーツライターとして食っていけるのだろうか。そう考えると、ワクワク感よりも、不安の方が大きかった。

とはいえ、『月刊陸上競技』から定期的に仕事をいただけるようになったのは大きな進歩だ。ライター2年目(2001年)の収入は246,000円。ライター1年目の約10倍を稼いだことになる(笑)。大学を卒業して3年という月日が過ぎようとしていた。

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