「陸上競技」専門誌につながるルートを探せ!

大学を卒業して2年目。浦和レッズを追いかけるという仕事で、幸運にもライター・デビューを果たした僕は、次なる一手を考えた。それは自分が続けてきた「陸上競技」を書くための〝作戦〟だった。

陸上競技の専門誌は国内に2誌しかない。『月刊陸上競技』と『陸上競技マガジン』だ。どちらかの媒体で絶対に執筆したかった。

しかし、実績のないライターが飛び込み営業をしても、スルーされる可能性は高い。そこでコネを探した。確実につながる〝道〟はないか、と。

すると、ひとりだけ可能性のある人物がいた。当時、実業団連合の事務局長を務めていた露木昇さんだ。『月刊陸上競技』の巻末ページに記してある編集委員のなかに、その名前を見つけたときは、チャンスだと思った。

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露木さんは僕が学生時代に東農大の総監督だった人物。総監督といっても、箱根駅伝やインカレなどの大きな試合に来るくらいなのだが、何度か声をかけてもらったことがあったのだ。

『月刊陸上競技』は実業団連合、日本学連、高体連、中体連の機関誌ということもあり、つながりがあると思った僕は、大学の大先輩に手紙を書き、後日思い切って電話をかけた。

「月刊陸上競技の編集部の方を紹介していただけませんか」と。

有り難いことに、当時60代後半だった露木さんは、23歳の後輩である僕の頼みを快諾してくれたのだ。

数日後、『月刊陸上競技』の編集部に連れて行っていただいたのだが、驚いたことに露木さんは僕のことを覚えていなかった(笑)。

ベテラン編集者のWさんに『浦和レッズJ2の軌跡』を見せて、少し話をした。「箱根は走ったの?」 と聞かれたので、1年生のときに10区を走りました、と答えると、Wさんは、「露木さん、箱根を走ってるじゃないですか。今度、若いのを紹介しますね」と言ってくれた。

だが、Wさんから連絡はなかなかこなかった。しびれを切らした僕は、Wさんに催促の電話をかけて、編集部のTさんとEさんを紹介していただいた。

そのとき、Tさんに「末永くお付き合いできたらいいですね」と言われたことを覚えている。すごくうれしかったからだ。あれから16年が経過したが、『月刊陸上競技』の仕事は今も僕のなかで〝柱〟となっている。

『月刊陸上競技』で得た初めての原稿料で、露木さんにワインを送った。すると数か月後に露木さんから連絡があり、今度は『スポーツニッポン』を紹介していただいた。その縁も仕事になった。

露木さんは数年前に亡くなってしまったが、ただの後輩にいろいろと手をさしのべてくれて、本当に感謝の気持ちしかない。大先輩の広い心を実感して、東農大陸上部の〝つながり〟を誇りに感じた。それ以来、〝後輩たち〟には、自分のできることはしてあげたい、という思いが強くなった。

そんなこんなで、『月刊陸上競技』で書くことになったわけだが、現実は甘くなかった。専門誌はとにかく原稿料が安いからだ。新聞配達のアルバイトを〝卒業〟できる気配はまったくなかった。

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