暗闇のなかに「スポーツライター」という光りが差した。

故障で走れない日々を過ごしていた大学時代。自分の将来に失望した。大学2年時までは、実業団に進み、オリンピックを目指すんだという気持ちに溢れていたからだ。しかし、夢はプツンと途切れてしまう。自分が何をすべきなのか、わからなくなった。

そんな真っ暗な時代に、一筋の光が見えた。大学3年生の冬。「スポーツライターになろう!」とひらめいたとき、久しぶりにワクワクした気持ちになったのだ。

とはいえ、どうやったらスポーツライターになれるのか、わからなかった。PCは持っていなかったし、スマホもない時代だ。それでも、スポーツ関連の書籍などから、「スポーツライター」といわれる人のほとんどが、出版社や編集プロダクションを経て、フリーランスのライターになっていることが判明した。

そこで、『月刊陸上競技』を編集している陸上競技社と、『陸上競技マガジン』を発行しているベースボールマガジン社への就職を希望した。一度、編集部で働き、そこからフリーのライターとして活動しようと考えたのだ。だが、陸上競技社は定期採用をしておらず、ベースボールマガジン社も、その年は新卒の採用がなかった。陸上競技と読書しかしてこなかった自分が、大手出版社の内定をゲットできると思わなかったこともあり、僕の「就活」はすぐに終了した。

大学4年時は、「スポーツライターになりたい」という気持ちを抱えたまま悶々とした日々を過ごすことなる。痛めた左股関節が完治して、箱根の予選会に間に合うのではという微かな希望を胸に秘めながら。

しかし、奇跡は起きなかった。リクルートスーツが汗ばむ時期に企業の合同説明会にも参加したが、そこに自分の「未来」はないように感じた。〝妥協〟することが、大人になることなのかもしれない。そう思ったものの、走ることで完全燃焼できなかった僕は、〝新たな夢〟だけは譲ることができなかった。

スポーツライターへの足掛かりを何ひとつつかむことなく、卒業の日は近づいていく。様々なプレッシャーに襲われた。両親、親戚、高校時代の恩師、友人たち。陸上部の同期で、「就職先」が決まっていないのは自分だけだった。

どんなキッカケでもいい、と卒業間近に選んだのは、「夜間講座」だった。日本ジャーナリストセンター(日本ジャーナリスト専門学校)が主催する「フリーライター養成講座(週2回)」と「編集者養成講座(週2回)」に6か月通うことにした(←いま振り返ると、スポーツライターとして活動するのにほとんど役立っていない。詳細はブログで紹介します)。

アルバイトでためたお金で授業料を払うと、手持ちのお金は10万ほど。卒業と同時に、陸上部の寮を追い出された僕は、とりあえず東小金井でひとり暮らしをしていた弟のアパートに転がりこんだ。

親からの援助は一切受けるつもりはなかった。夢のために、東京の大学に進学させてもらった身としては、走れなくなった時点で、親から仕送りをしてもらうことが心苦しくなっていたのだ。これからは自立して、自分の好きなことをやろう、と強く誓った。

桜舞い散る井の頭公園にポツンといると、将来の期待感より〝不安感〟の方が強くこみ上げてきた。