フリーランスが〝自由〟でいられることの意味。

『東洋経済オンライン』の連載コラムが打ち切られた顛末は前回の投稿に書いた通りだが、僕がネットメディアに進出しようと考えた理由を説明したい。それは5年ほど前にさかのぼる。

スポーツライターとして、主に「陸上競技」の分野で仕事をしてきたわけだけど、〝行き詰まり感〟に苦しむようになったからだ。30代前半もそれなりに忙しく、特に駅伝シーズンの11~1月は、普段あまりお付き合いのない雑誌から声をかけられ、〝先生〟のように頼りにされることもあった。しかし、駅伝シーズンが終わると、潮が引くかのように、彼らは遠くに行ってしまった。

こちらから「企画」の連絡をしても、返事が来ない。連絡があっても、まったく採用されない。そこで自分の存在に気づいてしまったのだ。フリーランスとしてバリバリ仕事をしていたつもりでいたけど、出版社から見れば、ただの〝下請け〟に過ぎなかったことを。

しかも、斜陽産業といわれる出版業界では、今後の仕事は確実に先細っていく。そこで僕は考えた。スポーツライターとして、自分をブランディングしていかなくてはいけない、と。そのためには、①ネット媒体で書くこと、②著書を出すこと。この2つが大切になると思った。

ネット媒体で名前を売る → 著書を出す → さらに名前が売れる

こんなサイクルを繰り返すことで、スポーツライターとしての仕事が充実していくのではという仮説を立てたのだ。また自分の最も得意とする「ランニング」と、多くの関心が集まる「ビジネス」を掛け合わせることで、〝新たな価値〟が生まれるのではとも考えた。そして、これまで無縁だったビジネス系の媒体で書いてみようと営業を行った。

最初は知り合いのライターが某ビジネスサイトで仕事をしていたので、そこの編集部にお願いした。しかし、うまくいかなかった。そこでビジネス系のネットメディアを調べてみると、ちょうど『東洋経済オンライン』がリニューアルして、急成長しているタイミングであることがわかったのだ。

ここしかない、と思った僕は2013年3月にお問い合わせメールから「企画書」を送付した。朝イチでメールをしたわけだけど、その日の昼頃には、当時編集長だった佐々木紀彦さん(現・NewsPicks編集長)から電話が入り、「是非やりましょう!」という話になった。そのスピード感に驚いた記憶がある。

当時は著書もなく、ネット媒体にも書いたことがなかったが、いきなり「連載」というかたちで書かせていただくことになり、すごくうれしかった。しかも、最初に書いた記事が、ヤフトピに載るなど反響もあった。

たまに誤解している人がいるけど、「フリーランス」は決して〝自由〟ではない。むしろ、不自由なことが多い。紙媒体でもネット媒体でも、自分の好きなことが書けるわけではなく、たいていは編集部からテーマの依頼があって、それに応えるかたちで記事は作られていく。

しかし、『東洋経済オンライン』は自分でテーマを決めることができた。さらに、原稿料は固定+PV連動だったため、結果(PV)を出せば出すほど、収入がUPする仕組み。記事1本ごとの単価は毎回異なるものの、トータル的にいうと、ネット媒体としてはかなり良かった。

多くの人がアクセスするメジャーサイトで、自分の書きたいことを書けて、バズれば収入もアップする。フリーランスとして〝自由〟を手に入れることができて、僕のスポーツライター活動は充実していった。

4年以上、『東洋経済オンライン』で書き続け、5冊の著書を出すことができた。昨年12月には、週刊誌を含む6媒体から取材を受けるなど、「陸上競技」のことなら酒井政人に聞いてみよう、という人も増えた。僕の戦略はうまくいったと思う。そういう意味では、『東洋経済オンライン』には感謝の気持ちで一杯だ。担当編集者にも大変お世話になった。

自分にとって最高の〝パートナー〟を失ってしまったが、前に進むしかない。フリーランスのスポーツライターとして、『東洋経済オンライン』で書いてきた以上に価値のある記事を生み続けていきたい。自分のためではなく、世の中のために。